質問にお答えします

サンクチュアリ教会世界宣教本部のティモシー・エルダーです。

恐縮ながらも、私も日本語でブログを始めることを決心しました。これまで1年ほどの間、ほとんど毎日ブログ村を訪問して皆さんのブログを数多く読ませていただきました。そして私がそこで果たす役割は無いのではないかと思ってきました。

しかし、サンクチュアリ系統ブログ専門のカテゴリーができるなどの環境変化に伴い、もしかしたら私の役割もあるかもしれないと考えるようになりました。

とりあえず、主にサンクチュアリ教会に対する質問にお答えする形で進めて行く考えです。質問をどしどし送ってください。

shitumonshimasu@gmail.com を、質問を送っていただく専用のメールアドレスとして設けました。「t」の後に「s」がありません。ご注意ください。

天一国において武器は必要か

)銃の必要性について、わからないところがありますので、もう一度お伺いさせてください。
天一国すなわち地上天国は、それぞれ市民が主人となり、家庭、近隣、氏族等を自分たちで守る。
銃を持たない今の世界の私たちは、奴隷になっている。
そこで疑問なのですが、地上天国、すなわち神様、お父様メシヤを中心に成り立っている社会、そこには、まだ悪が存在する社会なのでしょうか、それとも自由が与えられている為、間違いを犯す事があるかもししれないからなのでしょうか。仮に間違いを犯す人が現れ、自分の家に入って来た時、その人を殺して、それは罪にならないのでしょうか。お父様の御言葉にもある、武器を鍬や鋤に変えなければならない時が来る。この御言葉と何か違うのではないかと感じます。それともこの地上の小さな範囲で始まる地上天国、そこから地球が完全な地上天国に変わるまでの期間、武器を持たなければいけないと言っておられるのでしょうか。
お答え頂けたら感謝です。


)地上天国における武器(銃)必要性についてのご質問ですね。


(正直、私個人は「その時になって判断すれば良いのではないか。その時に必要があれば持ち、なければ持たなければ、それで良いのでは」と思います。でも、多くの方がこの点を疑問に思っておられるようなので、亨進様と国進様の考えを、私が理解する範囲でまとめます。)


お二人が語る地上天国における武器(銃)の必要性は二つあります。その一つは地上天国における悪の存在に関するもので、もう一つは万物の主管に関するものです。


「地上天国における悪の存在」は、多くの方にとって不慣れな表現かもしれません。しかし、「善悪を知る木」は、神様が人間の堕落以前に創造されました。即ち、「悪の概念」と「悪を選択する自由」は堕落以前にも存在し、堕落という事件が無かったとしても、そのまま神様の創造本然の世界に存在したでしょう。


神様は、人間が自分の判断で「善」を選ぶことを願われます。そうしてこそ、人間は人格を完成するのではないでしょうか。それでは、「悪の概念」が存在しない世界、人間が悪を選ぶ可能性がない世界においては、人間が自分の判断で善を選ぶことは可能でしょうか。私は不可能だと思います。


牛だけが存在して、豚が一匹も存在しない国に住む人に「あなたは牛肉と豚肉のどちらを食べますか」と聞くようなものです。実際には一つの選択しかないので、選択できないのと同じです。


自分の判断で善を選ぶことが人格完成の条件なら、悪を選ぶ可能性が無い世界においては人格完成が不可能です。そして、悪を選ぶ可能性が存在する以上、悪を選ぶ人もいるでしょう。その場合、善を選んで人格を完成した絶対多数の人が、悪を選んだ人の行動を規制しながら、その人が善と悪を見極めることができるようにもう一度教育して、究極においては善を選べるようにする必要があるでしょう。その過程において必要な道具として銃などの武器が必要でしょう。


地上天国において銃が必要になるもう一つの理由は万物主管です。


人間は多くの猛獣と比べて、走る速度が遅く、力が弱く、爪とか牙のような自然の武器も持っていません。そのように創造された人間が、万物を主管して万物の霊長としての位置を確保する為には、神様から与えられた創造性を活用して武器を作ることが必要でしょう。


さて、質問者が引用されたお父様のみ言葉は、旧約聖書のイザヤ書2章4節とミカ書4章3節などを引用したものです。


イザヤ書)主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。


ミカ書)主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。


旧約聖書の預言者らも、お父様も「国家間の武装紛争」を語りながら鍬や鋤について述べられたと思います。地上天国は、世界中が天一国憲法を受け入れ、真の父母様の代身である国王のもとにある世界です。悪が個人、または家庭の次元で規制されていれば、国家(天一国憲法では「州」)が、互いに武器を向けあうことはないはずです。


十分なお答えになったでしょうか。

絶えず悔い改める姿勢

)今回の熊本地震に、あまりに胸が痛み、質問させていただきます。

  今回の災難に対して、「韓氏オモニの失敗に対する審判である」という風に考えることもできるとは、思うのですが、私たちサンクチュアリ食口は、私たちの不信仰として捉えるべきではないだろうかと思いました。

  何の条件もないし、何の能力もない私たちではあるけれど、神様は、私たちを霊的な支柱に立てられたからです。

  そう考えると、やはり、今回、安永教会が「お願い」した島原37000名の先祖解怨祝福との関係を考えざるを得なくなります。

  そして、何かを悔い改めなければ、また、再び、同じ災難を引き起こしてしまうのではないだろうかとも思います。

  実は、今回、4月10日懇話会での、日本食口と亨進様国進様とのやり取りを見ながら、一つ、気になったことがあります。

  それは、「お願い」です。「お願い」というのは、謙虚そうに見えますが、実は、とても傲慢な行為だと思います。

  今、この時に、神様、お父様、亨進様が、完全かつ最善の方法で導いて下さっているのに、何故、亨進様国進様に「お願い」する必要があるのでしょうか?

  亨進様は、著書「天和堂」でも、「お願い」祈祷を戒めていらっしゃいます。

  神様の王国の説教の中でも、「他の宗教はお願いするけれど、私たちはお願いしない。」と語られていたと思います。

  私たちは、もう、「お願い」をやめるべきではないでしょうか?


)貴重なご意見をありがとうございます。確かに、私達が第二代王様を通してお父様と授受作用する場合は、聖書と天聖経からリーマを引き、良心に問うなどして慎重にすべきでしょう。絶えず神様のみ前で悔い改め、審判を神様の愛と捉える姿勢も重要です。


これから多くの霊人が再臨して、天災、人災、事故などが頻繁に起こるでしょう。その時私達は、世界が神様の祝福を受けながら天一国に向かって進む道が閉ざされ、審判を受ける道を辿るようになったのは、やはり韓氏オモニの失敗によるものであることを忘れないことが大切だと思います。

旧約と新約があっての成約

)原理講論総序に聖書は古いともしびであり その使命は終わるのである、と書かれています、ここを読んだ人は聖書を読まなくなるでしよう、亨進様の言う事と反対です。

  初代教会長をした ユー孝元氏はなぜこんなことを書いたのか、おかしいです、聖書を馬鹿にしたことばです。
  家庭連合の日本会長を2度勤めた大塚克己氏は言いました、全体の集会で「聖書でイエスキリストは言いました…私は何も言っていない…と だからイエスは何も語っていないのだ。」
  と、この大塚氏の言葉とユー孝元氏の言葉が心から消えません、「聖書を読むな」と、言っているかのようです。 おかしな人たちです コメントをお願いいたします。


)私はこう考えます。

大学の教科書を知り尽くした人に高校時代の教科書はすでに必要ないでしょう。

しかし、高校の教科書も学んでいない人に、大学の教科書は理解できません。


同じように、聖書を学ばない人に原理が理解できるはずがありません。旧約と新約があっての成約です。


お父様は聖書を知り尽くしておられ、その土台の上で原理を書かれました。そのようにして書かれた原理を、私達が聖書を知らずしてどうやって理解できるでしょうか。


大塚克己氏は現在、お父様を裏切り、お父様からいただいた祝福を失った立場です。もし聖書を十分に学んでいたなら、このような裏切りをしなかったのではないでしょうか。