質問にお答えします

サンクチュアリ教会世界宣教本部のティモシー・エルダーです。

恐縮ながらも、私も日本語でブログを始めることを決心しました。これまで1年ほどの間、ほとんど毎日ブログ村を訪問して皆さんのブログを数多く読ませていただきました。そして私がそこで果たす役割は無いのではないかと思ってきました。

しかし、サンクチュアリ系統ブログ専門のカテゴリーができるなどの環境変化に伴い、もしかしたら私の役割もあるかもしれないと考えるようになりました。

とりあえず、主にサンクチュアリ教会に対する質問にお答えする形で進めて行く考えです。質問をどしどし送ってください。

shitumonshimasu@gmail.com を、質問を送っていただく専用のメールアドレスとして設けました。「t」の後に「s」がありません。ご注意ください。

旧約と新約があっての成約

)原理講論総序に聖書は古いともしびであり その使命は終わるのである、と書かれています、ここを読んだ人は聖書を読まなくなるでしよう、亨進様の言う事と反対です。

  初代教会長をした ユー孝元氏はなぜこんなことを書いたのか、おかしいです、聖書を馬鹿にしたことばです。
  家庭連合の日本会長を2度勤めた大塚克己氏は言いました、全体の集会で「聖書でイエスキリストは言いました…私は何も言っていない…と だからイエスは何も語っていないのだ。」
  と、この大塚氏の言葉とユー孝元氏の言葉が心から消えません、「聖書を読むな」と、言っているかのようです。 おかしな人たちです コメントをお願いいたします。


)私はこう考えます。

大学の教科書を知り尽くした人に高校時代の教科書はすでに必要ないでしょう。

しかし、高校の教科書も学んでいない人に、大学の教科書は理解できません。


同じように、聖書を学ばない人に原理が理解できるはずがありません。旧約と新約があっての成約です。


お父様は聖書を知り尽くしておられ、その土台の上で原理を書かれました。そのようにして書かれた原理を、私達が聖書を知らずしてどうやって理解できるでしょうか。


大塚克己氏は現在、お父様を裏切り、お父様からいただいた祝福を失った立場です。もし聖書を十分に学んでいたなら、このような裏切りをしなかったのではないでしょうか。


「福祉についての私的考察」へのお答え

)亨進様の礼拝で福祉に関するみ言が、ありましたので僭越ながら、天恩会の一員として、自身のブログで意見を述べさせて頂きました。可能であれば、ご一読下さい。(「この子らを世の光に」です)


)貴重なご意見をありがとうございます。ブログで引用された説教は3月30日に韓国語で語られた「神の王国の義」ですね。第2代王様の福祉に関する見解について、この説教の内容に限らず、私がその間聞いてきた多くのみ言葉を土台にしてお答えしたいと思います。


王様は英語で語られる時には「welfare」と言われますが、韓国語で語られる「복지(福祉)」も、英語と同じ意味で使われると理解するのが正しいでしょう。ブログで指摘された日本の「広義」と「狭義」は、ほぼそのまま英語にも当てはまると思います。


ただ注意すべきことは、王様が時々「welfare」を、「state-sponsored welfare(国家または政府が主管する福祉)、」の意味で使われる場合があることです。特に否定的観点から「福祉」を語られる場合、これはすべて「国家による福祉」を指しておられるものと考えるのが正しいです。


政府は僕の立場。主人であるはずの私達が僕に資金を渡し、「これを使って私の兄弟を助けなさい」と言うのは不適当。困っている兄弟がいるなら、政府を介さず私達が直接援助すべき。特に現在アメリカの福祉制度は、利用する人に福祉依存症を引き起こし、主人としての霊的成長を阻害している、との立場です。


また、経済論からしても、政府よりも民間組織が能率的に福祉事業を行えると言えるでしょう。なぜなら、国家権力を背景にして徴収した税金を資金源とする政府とは対照的に、民間組織は寄付者と福祉サービス利用者の両方に対して、透明な運営と高水準のサービスなどを提供しないと、事業を長期的に持続できません。政府は競争相手の存在を許さない一種の独占組織であるのに対して、民間組織はいつも「市場」に気を配りながら事業を運営します。


この説教でも指摘されましたが、18世紀末の建国当時から19世紀末までの間、アメリカの福祉事業のほとんどが、教会などの民間組織を中心にして行われました。それが福祉事業の本来あるべき姿です。


下の画像は、ニューファンドランドの町中にある大衆レストランが今週土曜日に予定している慈善イベントの広告です。「ガンと闘う地元の家庭を支援するため」との目的を掲げ、示された時間帯の売り上げをこの家庭への義援金に回すとの事です。サンクチュアリとは関係ありませんが、王様が示される「民間による福祉」の一例として紹介します。


(註:このレストランについて王様は、「材料が有機農でなく、GMOを含有する可能性が高い」などの理由で、お食事にはまったく利用されません。ここでは、「民間福祉のモデル」としてのみ紹介します。)




資格無くして恩恵を受けた3万7千人

第2代王様はみ言葉を語られる中で「私達が神様の祝福を受けるのは、何か資格あったり、功労があるためではない」と、強調されます。その根拠として旧約聖書のイザヤ書64章5節のみ言葉を頻繁に引用されます。


わたしたちは皆、汚れた者となり

正しい業もすべて汚れた着物のようになった。

わたしたちは皆、枯れ葉のようになり

わたしたちの悪は風のように

わたしたちを運び去った。


私達がいくら正しい業をして神様に認めて頂こうと思っても、神様からしてみると、それらの業はしょせん「汚れた着物」のようなものでしかない。したがって、私達は神様の祝福を受けるのは、あくまでも神様が無条件にくださる恩恵なのだと、仰います。


例えば、4月10日(天暦3月4日)に、1638年4月11日と12日に島原の原城で殉教したキリシタン3万7千人が第2代王様によって解怨と祝福の恩恵を受けましたが、これは彼らに何が功労があってのことではありません。


「この恩恵にもっとふさわしい殉教者が他にもいる」との主張があったとしても、それは人間の尺度を根拠にした意見にしかなりません。「恩恵を受けるにふさわしい人」はだれもいないのです。


本来なら原城の3万7千人は、解怨祝福の対象外になるはずでした。事実、熊本安永教会の井上教会長から打診を受けた私は、「対象外です」との内容で返信しました。


それまでの経過では「真のお父様が指示された内容、すなわちお父様の権威のもとにある祝福中心家庭と独身シックの先祖8系列210代までに限って解怨と祝福の恩恵を与える」との方針が、王様によってはっきりと定められていました。他にも特別解怨の要請がいろいろと来ていましたが、すべて許可されませんでした。


私の返信を受けた井上教会長は「分かりました」と一言だけ言われ、それ以上この件を追求されませんでした。


今から考えると、王様の立場に絶対服従されたことが、天の心を動かしたのかもしれません。行事の数日前に私が念のために今一度王様にお伺いすると、意外にも「あ、それはやるべきだ」と答えてくださったのです。


主を裏切った者たちに裁きを下す使命を与えるために、お父様が彼らを特別に選んでくださったと考えるべきでしょう。


さて、解怨祝福から4日目にして、その原城址から遠くない地点を震源地とするマグネチュード6.5の地震が発生しました。しかも、揺れが最も激しい地点は今回の解怨祝福を申し込んだ安永教会が位置する益城町でした。


解怨祝福が原因で地震が発生したのか、解怨祝福があったことを原因に被害が本来より少なかったのか、それとも何の関係もないのか。その答えは真のお父様のみがご存知だと思います。私達はただ、お父様に導かれるままに歩むことしかないと思います。